2009年05月21日

重い責任


一部の学生達が、放課後別な学生との面談中、

「先生話が終わったらいいですか?」と2回聞いてきた。


面談終了後、学生達の話を聞いてみると奨学金の話だった。

奨学金と言うのは当然、学生達に光も闇ももたらす。

必ずどこかに喜びはあるけど、必ずどこかに不満も残す。


学生達の話によると、奨学金を受けた学生の中には、

初級の日本語がわからない頃、

テストをカンニングしていい点数を取っていた者や、

病気を偽って休んでいた者がいると言う。


訴えてきた学生はとても真面目で意欲的で、

奨学金受給の最終候補に残っていた学生だった。


どうして自分がもらえないのかと言う不満も、

口には出さなかったが当然あるだろう。

自分のテストを見た者がいい思いをしているのは、

私が学生の立場になっても納得が行かない。

しかし、教師が見る目、学生が学生を見る目は違う。


私はそのクラスを4月からしか見ていないので、

そのクラスの奨学金対象者は選んでいない。

候補者「達」を選ぶにとどまった。


私は伝えられる範囲のできる限りで、

学生達に奨学金の選抜や条件、

必ずしも本人の努力だけで見られないことなど、

懸命に伝えたつもりだ。


ある学生はこう言った。

「メイシー先生はカンニングや私語にとても厳しいです。

 私はそれがとても嬉しいです。

 でも、去年の先生の中には甘い先生もいました。

 その甘さで評価をうけていると思うと悲しいです。」


その先生が誰なのか、犯人探しではないので知るつもりはない。

しかし結果、甘さは本当の優しさにはならないってことだ。

私は厳しいほうの先生だと思うけど、

それを受け入れてくれている学生もいると知って嬉しかった。


しかし、奨学金の話に戻ると、

奨学金を受けている学生だって、

カンニングが本当だとしてもそれだけで実力を維持はできないし、

嘘をついて休んだとしても、

それが出席率を大きく揺るがすような差にはならない。

評価がひっくり返ることはない。


それを伝えると、気持ちは納得してない顔で、

「先生の言ったことは理解しました。

 ありがとう、先生」

と言ってくれた。


「私の話せる範囲で、伝えられることはちゃんと伝えるからね。」

と私が告げると、ある学生がこう言った。

「私はメイシー先生を信じるよ。」


私を信じる…?

彼らは少なからず、去年の先生に溝を感じたからこそ、

私に相談と訴えを起こしてきたわけで、

信じるって言葉は私の心にズシンと響いた。


話せること、話せないことはもちろんある。

でも、教師側に限定範囲があっても、

説明する姿勢が学生はほしかったんだと思う。


彼らは去年、少なからずの不満や教師への溝を感じていた学生だ。

その彼らが今年の先生(=私)を信じると言ってくれている。

それを裏切るわけにはいかない。

責任の重さを一瞬で実感した一言だったので、

もちろん重い。こわい。

でも、信じてもらおう。

この人は信じていてもいいんだって安心できるような人でいよう。
posted by スンプー at 00:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 2006.10-2010.03 日本語学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お晩です。

人の感覚、中々難物です。

どれほど誠意を尽くしても、信頼を得られず終わったり、一寸いい加減だったときに、思わぬ評価を得てびっくりしたり・・・

相手の人は、その人の「範囲」で判断するので、止むを得ないですが、信頼を得ようと躍起になると、思いと違った結果のときに、うーんとガッカリしたことがあります。

そこで、自らの良心に恥じない位に努めて、その上での展開であれば、いいかな・・・と、思うこのごろです。
Posted by 沖の at 2009年05月21日 21:15
沖のさま

えぇ。
特段何をするわけではありませんが、
気持ちとして、
彼らが安心していられる存在でいようと思っています。
Posted by メイシー at 2009年05月21日 23:38
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